砂鯨

つれづれなるままに

宗教とは何かという話

宗教の意義をたとえ話で

私は宗教は人類にとって非常に大切なものであると思う。宗教が無意味だとは思わないし、自分自身も仏教の思想に深く傾倒していると思っている。

 

さて、宗教の意義を見いだせない人に宗教の意義を説明するのは簡単ではない。世界中で起こっている争いごとや戦争は、宗教対立から生じているものも多く、宗教はその意味で害悪だと反論されるかもしれない。

 

とりあえず今回はそうした小難しい話をすっ飛ばして、宗教がいかに「人がどう人生を生きるか」に大きな意義を持っているのかについて説明したいと思っています。簡単に。

 

この話は、私が中央仏教学院に在学中に「得度」をこなすために研修所にいたときに、先生から聞いた話である。この話は私にとって非常に印象に残った話であった。深く納得することができたからである。浄土真宗本願寺派の先生が用いたたとえ話はこうだ。(他の宗派には厳密には当てはまらないたとえ話かもしれないが、私はこの話は全ての宗教に通底すると思っている)

 

宗教とは新幹線に乗るようなもの?

今あなたは京都から東京に新幹線で向かう必要がある。東京でお昼から始まる会議に出席するためだ。新幹線の出発時刻は午前9時。この新幹線に乗れなければ、お昼からの会議には間に合わない。もう既に8時45分なのに、まだ駅にも着いていない。あなたは焦るだろう。本当に心配で、気が気でなく何も手に着かない。走りに走って、間一髪!新幹線に乗ることができた。

 

あなたはほっと一安心する。ああ、良かったと胸をなで下ろすに違いない。あなたはまだ会議に出席するという目的を達成していない、そして何よりも東京に着いていないにもかかわらず、ほっと一安心するに違いない。それはどうしてか。この新幹線がきちんとあなたを定刻に東京に連れて行ってくれるとあなたは信じているし、それを信じるに足る明確な理由があるからだ。

 

さて東京に定刻に連れて行ってくれるのだから、あとはこの2時間半をあなたはどう使おうが自由だ。会議に向けて、資料をじっくり読み直すも良し、お弁当を食べてほっと一息するのも良し、一眠りするも良し、だ。

 

宗教は私たちがどう生まれてどう生きてどう死ぬかという人生の難問に何らかのアプローチ方法を与えてくれるものだ。自分がこれからどうなっていくのかという最終地点を指し示しているとも言えるだろう。自分がこれからどうなるのか(東京に時間通りに到着して会議に出席できる)が自分にとって明確であるならば、その安心がさかのぼって現在の自分にいたり届く。だからこそ、まだ新幹線に乗っただけで京都にいるのにもかかわらず、あなたはほっとしているのだ。そしてその安心感に包まれるからこそ、あなたは無用な心配をせずに、到着までの時間、安心して全てをゆだねることができる。だからこそ残りの人生を有意義に、好きなように使うことができる。

 

私は今まで聞いてきたどの話よりも、この話がすっと胸に落ちてきた。宗教に対して懐疑的な目しかむけられなかった自分にも、「そういうものなのかなあ」と素直に聞くことの出来る話だった。だから私以外の人がこの話を聞いてどう思うかはわからないけど、もし宗教が必要だと感じているのに、それをうまく他人に説明できない人がいたならば、このたとえ話のことも思い出してみてください。きっと面白いなと思ってくれる人も少なからずいるのではないかと思っています。

 

付け加え

ちなみにこれは、誰にでもわかるたとえ話を用いながら、宗教の意義を説明したものです。いずれ時間があれば、もう少し抽象的な議論で宗教に対して思っていることを語ってみたいとも思っていますので、どうぞよろしく。